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第一章
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国際的人権の趨勢に反する戒厳令
1975年4月16日 桃園の
慈湖に向かう蒋介石総統
の棺を見送るため、教官
(学内駐在軍人)の引率の
もと沿道に膝をつく学生
たち 提供:中央通信社
不利を感じ、何度も蒋介石に
「二つの中国」
を受
改革案は、蒋経国の主要政策に形を変えて現れ
け入れるよう進言したが、
「 漢賊不両立(漢・中
ていた。
れ、機会を逸してしまっていた。
中華民国が国連
していたが、本格的な台湾経営に乗り出し、い
湾共和国」
とすべきだと提案した。
を推進した。
によると、楊西崑は、台湾の将来を決める国民
規模増員立法委員選挙」(選挙区選出及び職業
支持し、蒋介石を説得することを望んでいた。
員15議席。任期はどちらも3年)
が実施された。
国国民党と賊・中国共産党は相容れない)」
とさ
で議席を失うと、楊西崑は更に国名を
「中華台
アメリカ国務省の機密解除電報「台北5869」
投票の実施や新憲法の制定などを、
アメリカが
つまり、国連の議席を失った後の台湾の知的
エリートは、早くから台湾独立に反対していた
雷震にせよ、体制内の外交官僚にせよ、その省
籍を問わず、台湾の将来について、図らずも彭明
敏らが1964年に掲げた「台湾自救運動宣言」
と本質的に同じ見解を共有していたのである。
蒋介石と蒋経国はどちらも雷震に対しては、
何の反応も示さなかったが、
「救亡図存献議」
の
例えば、
それまでは軍事だけを財政面で優遇
わゆる
「十大建設」
( 大規模インフラ整備計画)
また1972年以降、定期改選が行われる
「小
別選出議員計36議席、総統が選出する華僑議
しかし、民意により選出された民意代表が国会
に占める割合はわずか1割しかなかった。
『台湾政論』─
初の選挙向け党外雑誌(1975年)
1975年4月5日の蒋介石の死後、ベトナム、
フィリピン、
タイなどの国が相次いで台湾と断交
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