| つつあった優れた小説家、作家の多くが筆を断 つこととなった。 中華民国政府がその起草に参加し署名した 世界人権宣言の第19条には、 「すべて人は、 意見 第一章 | 国際的人権の趨勢に反する戒厳令 あげるから」 と言い、原稿用紙いっぱいに添削が なされた論文を清書することで、二人の中国語 能力は向上していったそうである。 彭明敏は2021年に出版された『絶筆集』の 及び表現の自由に対する権利を有する。この権 序文で、 「100歳近くになった今でも、感謝の気 由並びにあらゆる手段により、 また、国境を越え す」 と薩孟武に対する感謝の言葉を述べている。 受け、 及び伝える自由を含む」 と規定している。 で教育を受けた台湾の知識人が、身近な言語 らあったもので、決して特殊な考え方ではない。 困難であったのかが見て取れ、 またそれはそれ 利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自 ると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、 「表現の自由」 という学説は200年以上前か また戦後、欧米の先進国では、国民があらゆる 言語で自由に情報を 「吸収」 し 「発信」 していく 権利として確立されることとなった。 持ちでいっぱいです。 この本を薩孟武氏に捧げま このことから、1950年代においては、 日本語 で情報を吸収し、意見を表明することがいかに は言うまでもなく、表現の自由を保障することの 意義や機能を物語っている。 1950年代の台湾には、幸運にも薩孟武のよ しかし、 当時台湾で日本の教育を受けた世代 うな立憲民主主義への信念を持った中国から 見・情報の発信」の権利を行使する自由を奪わ また、 自由主義陣営にとどまり、隔週刊誌『自由 あった。わずかに残されたのは、選挙期間中に を求めて戦った。 は、出版・放送メディア通じて 「言語表現」 と 「意 れ、 「 声なき世代」 となってしまったのも同然で 母国語で選挙演説を行うという、 短くて限られた 「言論の休暇」 だけだった。 の知識人たちがいた。雷震や殷海光、傅正らも 中国』 をはじめとする党外雑誌を通じて民主化 当時は『自由中国』 のほかにも、 『 民主潮』 『自 治』 『自由』 『時与潮』 など多数の党外雑誌が存在 戦後、当時の東京帝国大学から台湾に戻っ したが、初期の党外勢力は一般大衆の代弁者と 然なんの準備もなく中国語の世界に放り込まれ の記事を通して、台湾の各界に伝えられて���た。 た彭明敏教授は、後に 「人生も後半になって、突 た。聞く、書く、話すを、 すべて一からやり直した」 と回想している。 また、彭明敏は、同僚である劉 慶瑞教授(東京帝国大学留学、台湾大学憲法 学教授) も同じく中国語がわからなかったが、幸 いにも、中国から来た薩孟武(台湾大学法学部 教授、同学学部長)が、熱心に法学論文集への して議場に上がり、 その活動は主に外省人記者 『自由中国』 -戒厳令体制下 最も重要な啓蒙出版物(1949-1960年) 『自由中国』はその刊行当初は、中国国民党 の機関紙とも言うべき性格を帯びていた。社長 論文寄稿を勧めてくれたと繰り返し語っていた。 を務めた雷震(1897-1979)は、かつて中国 できるだけ中国語を書きなさい。私が添削して め、 中国青年党と中国民主社会党(旧中国民主 薩孟武は当時二人に、 「日本語風でいいから、 国民党を代表して政治協商会議の秘書長を務 21

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