主任序
表現の自由は民主主義の礎であり、社会が
文明的な進歩を遂げるか、閉鎖的で凋落した社
ませんでした。
1970年代、国連議席の喪失、
アメリカとの国
会となるかの分かれ目でもあります。
交断絶といった時代背景のもと、
「アジアの孤
自由だけを指すのでなく、
より重要なのは、
それ
志たちの手により、
『台湾政論』
や
『美麗島』
など
表現の自由とは、
口頭や手書きによる表現の
児」
という宿命から脱却しようとする台湾の有
らの背後にある思想や理念の解放です。
が次々と世に送り出されました。
ようになると、
「自由な人権」を保障することが
動となり、台湾民主化運動の重要な分水嶺とな
第二次世界大戦後、国連が創設、運営される
美麗島事件は国際的な注目を集めた人権運
国際社会の潮流になりました。
しかし、台湾はそ
りました。そればかりでなく、1980年代におけ
1987年に解除されるまでの38年間続いたの
り、
さらに前進を続けることとなりました。
の潮流から外れ、1949年に戒厳体制に入り、
です。
る街頭抗議行動の勃興と民主化の波へと繋が
権威主義政権は1987年に戒厳令の解除を
この半世紀近い人権の暗黒時代にあって、
か
余儀なくされましたが、
「 動員戡乱時期臨時条
に命を捧げた民主主義の先達の努力に感謝の
いずれも悪霊のように陰で人々を傷つける機を
細いながらも堅固な民主主義の炎を守るため
款」、
「懲治叛乱条例」及び「刑法」第100条は、
意を表します。
うかがっていました。
選挙で奮闘したほか、雷震氏や殷海光教授、
そ
威主義体制の強権的な法律に抗議し、台湾の自
特に1950年代、
いわゆる
「党外勢力」
が地方
して私の恩師である傅正教授らが隔週刊誌『自
由中国』を通して奮闘し、台湾の自由と民主化
の道に微かな光を灯し始めました。
鄭南榕氏は、100%の表現の自由を求めて権
由と民主化を加速させ、
台湾の未来をより明るい
ものとするために、
その生命を犠牲にしました。
1991年の
「動員戡乱時期臨時条款」
の廃止
『自由中国』
は1960年9月に休刊に追い込ま
と、1992年の
「刑法」第100条の改正によって、
も行き詰まりを見せました。
しかし、
『自由中国』
に入れましたが、振り返ってみれば、
そこには血
れ、1960年代の台湾は思想的にも、言論的に
と
「党外精神」
を受け継いだ有志たちが、
自由と
民主を追い求める抗争精神を絶やすことはあり
台湾の人々は、
ようやく完全な表現の自由を手
の跡と涙の跡が残っています。
台湾の民主の進展に伴い、人権もまた伸長し