戒厳令体制下 署名はしたが批准できない 「両公約」 かった。 批准ができなかった最大の問題は、領土(台 第二次世界大戦後、中華民国政府は国連の 湾島、澎湖諸島、金門島、馬祖島など�� を実効支 保障理事会の中華民国代表で人権委員会副委 厳令を敷いており、両公約に定められた「締約 創設メンバーの一員となった。当時、国連安全 員長であった張彭春は、 その人権に関する学識 により、人権委員会のメンバーたちから高く評 価され、世界人権宣言の起草に影響を与えるこ とになった。 配する当時の政府が、人権を厳しく制限する戒 国は、権利の増進及び擁護のために努力する」 責任を果たすことができなかったことにある。 当時は中国国民党が政権与党であったこと から、立法院で批准手続きを行うこと自体は難 教育畑出身の張彭春は、人権の基礎は良心 しいものではなかったであろう。 しかし、両公約 ことを避けただけでなく、 アジア民族の視点を り、締約国としての手続きを終えてしまうと、国 の確立にも重要な役割を果たした。 それに関連する規制令を廃止しなければなら と理性であると唱え、西洋神学のみを尊重する 巧妙に主張することで、世界人権宣言の普遍性 残念なことに、台湾では1949年5月20日に 戒厳令が敷かれることとなり、同年12月7日に はただの「宣言」ではない。批准書を国連に送 際人権委員会の審査に通るためには、戒厳令や なかった。 「市民的及び政治的権利に関する国際規約」 は中華民国政府は首都を台湾の台北に移すと の19条、21条、22条は、 それぞれ表現の自由、 て、雷震、殷海光、徐復観、夏道平、傅正など共 るが、台湾では戒厳令によってそれらすべてが いう大統領令を発した。そのような状況におい 産主義に反対し、 自由主義を堅持する一部の知 識人は、中国国民党政府とともに台湾に渡り、 集会の自由、結社の自由を具体的に規定してい 厳しく否定、剥奪されていたのである。 「戒厳令」第11条によれば、 「最高司令官」 が 民主憲政の夢を実現するために台湾でも奮闘 「戒厳区域」において執行することができる事 1966年、国連は「世界人権宣言」をさらに を停止し、言論、講演、新聞・雑誌、写真、 ポスタ した。 「成文」化するため、 「 市民的及び政治的権利 項の第1項は、 「集会、結社及びデモによる陳情 ー、標語その他の出版物を取り締まる」 こととさ に関する国際規約」 と 「経済的、社会的及び文 れていた。 称「両公約」、以下本文においても同様)を採 トライキの禁止、 「 郵便・電報の開封、必要に応 府は、1967年に速やかに両公約に署名した 質問など、合計11条において、両公約に定めら 化的権利に関する国際規約」 ( 台湾における通 択した。台湾に拠点を移していた中華民国政 が、1971年に中国の代表権を失うまでに、国会 14 (立法院)での批准手続きを経ることはできな そのほかにも、宗教活動の制限又は禁止やス じてその押収又は没収」、被疑者に対する職務 れている信仰の自由、労働団結権、通信の秘密

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