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第二次世界大戦後、中華民国政府は国連の
第一章
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国際的人権の趨勢に反する戒厳令
が設けられており、その範囲は国民主権、人身
創設メンバーの一員となった。当時、国連安全
の自由、言論・表現の自由、集会・結社の自由、
員長であった張彭春は、
その人権に関する学識
いた。
価され、世界人権宣言の起草に影響を与えるこ
民衆もまだ覚醒していなかった。
そのような中、
保障理事会の中華民国代表で人権委員会副委
により、人権委員会のメンバーたちから高く評
財産権、選挙権、被選挙権など多岐にわたって
しかし、
当時の中国は教育が普及しておらず、
とになった。
いち早く人権に目覚めたのは、欧米の思想に触
と理性であると唱え、西洋神学のみを尊重する
た。その後の長年の戦争により、政治勢力の統
巧妙に主張することで、世界人権宣言の普遍性
追求され、立憲民主主義への道は極めて困難
教育畑出身の張彭春は、人権の基礎は良心
ことを避けただけでなく、
アジア民族の視点を
れ、独自の考えを持っていたエリート世代だっ
合は難しくなったばかりか、公益よりも私益が
の確立にも重要な役割を果たした。
なものとなった。
先進民主主義国への羨望だけでなく、中国と
1月)や制憲国民大会(中国共産党と中国民主
中国の知識人の立憲主義への夢は、欧米の
同じくアジアに属する日本が、1889年に立憲
第二次世界大戦後、政治協商会議(1946年
同盟は出席を拒否:1946年11~12月)を経
君主制(明治憲法)後に変貌したことにも由来
て、1946年末にようやく
「中華民国憲法」が可
のの失敗し、また清朝滅亡後には、
さまざまな
月25日に公布、施行されることになった。中国
10種類以上の憲法草案が提出された。
民主制が強く切望されていたことがここに見て
する。中国では清末に立憲民主制を目指したも
政治勢力がその政治的道義の高みを目指して、
表現の自由については、孫文は1904年に発
表した
「満清罪悪十大条(清朝の罪悪十大条)」
の中で「我々の知性の発達を抑制するもの、そ
決され、世界人権宣言に先駆けた1947年12
においては、政治的立場の相違を問わず、立憲
取れる。
しかし、その後の国共内戦で中国共産党と
中国国民党の軍事的形勢が逆転すると、憲法
れは表現の自由の禁止だ」
と言及している。
自由
に基づき機能し始めたばかりの国民大会は、皮
中国における人権闘争の公式な始まり」
と評し
(反乱鎮定動員時期臨時条項)」を可決、
「中
また、孫文が臨時大統領に就任した1912
権限を拡大するために三権分立の原則に関す
主義の大家である殷海光教授は、
これを
「近代
ている。
年、臨時参議院によって議決、公布された
「中華
民国臨時約法」
には、
すでに人権に関する規定
肉にも1948年5月に
「動員戡乱時期臨時条款
華民国憲法」
は施行からわずか半年で、総統の
る多くの重要な規定が凍結されてしまった。
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